どうしようもないままで美しい僕ら

かんがえたことと日々の記録

年長者のことばについて

年上の人がなにかを心から自分に語るとき、自分が思ってるよりも強く大きく、自分になにかを向けている。

ぼくもきょうは年長者としての語りを高校生に向けてしたので、それをなんとなく感じた。

年長者に語られるとき、そのことを思って、全力で受け取ろうとしたい。

 

さいきん思ってることは、ブログでアクセスが伸びてる記事はなぜ伸びてるのかわからないということです。

人間の反応と制御と生命について

「自分でコントロールできることなんて限りなく少ないよね」

と僕は言った。

だから何っていう話をずっと。

自分で決める!こうなりたい!こうありたい!って言ってるけど、ほんとに自分で決めてることなんてないと思う。自分の意志で選べていることなんてない。

じゃあ何が決めてるか?自分も決めてるんだけど、それは自分の意志で、自分でコントロールして決めてるんじゃなくて、自分が勝手に決めてる。コントロール可能ではないと思う。刺激を与えられて反応しているだけなんじゃないかと思う。その刺激もコントロール不可能。だから自分が何か行動や選択をしているとき、自分で決めていると思っても、自分で決めているわけではない。意志は及ばない。反応。

このブログを書いているのも何か受けた刺激に反応しているだけ。

自分を変えよう。と思うことがあったとして。自分の意志で人は変われるのか、それは自分で決めて変わっているのか、みたいなことが気になっている。

結局誰も何も決めてなくて、ただ大きな流れのなかに存在しているような、ただ生きていて、勝手に決まっていくような感じがする。これは、なにも変えられないとかネガティブな意味ではなくて。変えるとか変えないとかも、大きな流れのなかにあるようなイメージ。自分で何言ってるかあんまりわかっていないけれど。

さいきんは、人間と人間の違い、人間の多様性、個体差、みたいなものに興味があるかも。同じ刺激を受けても、自分はほかの人と反応が全然違うんだなって思うし、それぞれの人の反応が全く違うということを感じることが多い。人間、生命。生命って反応なんじゃないかな?とか、虫を見てて思う。何?

全然なんもコントロールできん。仏教の考え方でいえば、自分のものなんてなんもないらしい。コントロールできないものは自分のものじゃない、だから、他人、そして自分さえも自分のものじゃない。それってすごくわかる。一切皆苦諸行無常諸法無我

家の共用の洗濯機がこわれていて脱水ができずに止まってしまったのでそのまま干しているが、いま顔の近くにその洗濯物がある状況で、すごく生乾きのにおいがしている。

カメラとくらしと人と人々について

目がカメラになったらいい、瞬きでシャッターが切れたら良い。私の存在がいらない、カメラがいらない、レンズがいらない。私がいることで写るものが不自然になるから、そう思う。

でも、カメラがいらなくても、私の存在はあってもいいときもある。私に向けられた表情の写真を撮りたいときは、カメラは絶対に不自然さを生むからいらないが、私がいなければならない。

そのままを撮りたい。私の目に見えているそのままを撮りたい。カメラを構えたら、カメラがあることが意識されたら、何か違うものになってしまう。

くらしを撮りたい。自分の住む街を撮りたい。街をゆく人々を撮りたい。その一瞬が、その人が生きているという瞬間なのだ。くらしが生そのものなのだ。くらすということは生きるということだ。生きている、という瞬間が写真に写ったら良いと思う。

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人を撮りたい。人を撮るのは難しい。写真に写ることが嫌いな人もいて、それを考えると勝手に写真を撮ったらダメな気もして、どうしていいかわからない。人を不快にさせないことが望ましい。

この前は、勇気出して、写真を撮りたい。と言って、撮らせてもらった。

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どうやら、自分の中にすでにある表現したいものを、写真を撮ることを通じて出力しているらしい。

そして写真は表現であると同時に記録でもある。それは私の生の記録なのかもしれない。

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7/16追記:

写真を撮るということは、人間の行為のうち、とても純粋で神聖さをもった生命の行為だと感じる。とくにフィルムカメラで撮ることに対してそう思う。光を焼き付けて記録している感じがするのが好きだ。

フランス語テレビ番組について(7月1日 天気:雨)

たまたまテレビでやっていた。夜遅めの時間。あまりこのくらいの時間にEテレを見ることはなかったな。いま、2355という番組(?)で、日付が変わる前の5分間から日付が変わるところをお知らせしてくれていて、とっても良い。

私は第二外国語でフランス語を選択していたので、懐かしかった。覚えているところも覚えていないこともあったけど、単語の意味はけっこう覚えているなあと思った。私は理解力や記憶力や勉強する力があって成績優秀なタイプなので、フランス語はまあよくできていた。といってもすごーーーく基礎のところだしもう忘れたけどね。いまは覚えていることもいつかは全部忘れるんだろーね。

今日はワクチン①を打ったので左腕が痛いです。あと久しぶりに陶芸をしました。極上赤土。やりやすかった。おやすみね。

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失礼とコミュニケーションについて

失礼をする癖があるかもしれない。失礼という言葉じゃ生ぬるい?

今日コミュニケーションの放棄を指摘された。指摘してもらって良かった。昔もたぶんあった… 放棄してることに気づけなかったな。難しい。コミュニケーション…

難しい…

昔も、仲良くなりたかった女性の先生に、タメ口を使ったり、容姿(体型)のことを言ったりして、私は面白いつもりというか、仲良くなろうとしてたけど、あんまり良くなかったと思う。とくに2個目は。

それは直接的には関係ないかもなんだけど、うーん…うーん…

みんなこんなもん?直すとしたらどうすればいい?わーん

人に誠実でいたいな、それを意識するのを忘れてしまう、まあ、完全にプライベートな場ではそこまで気をつけなくてもいいのかもしれないけど、みんなどのくらい意識してるのかな、意識しなくてもできるのかな。傷つけないようにというのは無意識にできるんだけど、誠実なコミュニケーションというのは苦手だ…

あまり相手がどう思ってるか考えられないし、たぶん人を軽んじやすいし…うーん

がんばります

忙しない日々について・6月30日 天気:くもり/雨

さいきんはすこしせわしない。

せわしない、という言葉の語感がなんだかいいなと思った。

頭に浮かんだことを全部言葉にしたい気持ちのときがあって、それが今、なのでこの記事を書いている。

 

自分にとって適切な忙しさを常に保ちたいと思っている。が、自分の状態は変わるし予定は前から立てないといけないので、そのことは難しい。

さいきんのすこし忙しない日々は、自分にとってピッタリ適切よりはやや忙しい、ぐらいの感じで、まあこれくらいでもいいのかも。

 

きょうは午前中ゼミの発表があった。ゼミは9時20分開始、私(とほかの大学生一般)にとってはまあまあ早い。7時半起き。ゼミが1限からというのはなかなかない。こんな早起きをした日は、昔だったら限界みたいな眠さだった気がするので、毎週1回はやおきの日があるのめちゃめちゃきついな〜と前は思っていたが、今は覚醒レベルが上がっているのか、昼寝をしないことに慣れたのか、意外と大丈夫だ。

水曜日はゼミの日で、ゼミの後にバイトがあったのはたぶん初めてだ。ワクチンを打つ人や体調を崩す人がいてスタッフが足りないため駆り出された。

7時半起きで昼寝なしで労働して夜まで起きているなんて昔だったら考えられないかも。よくがんばっています。

子どもとかかわるバイトをしている。当たり前のことを言うけれど、子どもめっちゃ可愛いなあ〜〜というときと、なんで言うこと聞かんの、やめてほしい、しんどいわ、みたいなときの両方がある。今日は、自分が、子ども可愛いなぁ〜♡のモードだった気がする。寝不足のせい?みんな可愛かった。

 

ふつうの私だったらはやおき昼寝なし労働をして疲れた今の時間、だいたい寝てしまうんだけど、夜zoomでおはなしする予定がある(さいきんわりとこれがある)ので、起きていられそう。

こういう日は、はやくねむれる。

明日から7月だね。