どうしようもないままで美しい僕ら

かんがえたことと日々の記録

僕のこわいものたち、そして福祉で働くということについて(福祉で働くことは生産性至上主義への対抗か)

僕の抱える目に見えないもやもやを、僕自身のために形にする試みでした。

5000字、よくあるレポートの字数くらいでしょうか。

長いので興味のないところは読み飛ばしつつ読んでくれたらとてもうれしいです。

僕はこの春から大学4年生で、その次の春から福祉業界で働きます。

 

 

はじめに

この文章は、僕のなかのもやもやを解消するために書こうとしたものだったのでした。3月の終わりくらいから納得がいくようにちょっとずつ書き進めていたのだけど、なんと、この文章を書いてるうちにもやもやが消滅してしまいました。

しかも、書こうと思っていたことを書き終えないうちに消滅してしまい、そこから、もやもやがないので、自分のなかにないものについて考えることが難しくなって、書けなくなってしまいました。

だから、書こうと思っていたのに書けなくなってしまった部分はちょっと適当な感じで書かれているかもしれません(笑)。

また、「こわい」ときに書いている分と「こわかった」(「こわい」が過去になった)ときに書いている分があるので、時制がごちゃごちゃになっていると思いますが、それも含めて、不完全なものとして楽しんでください。

なぜもやもやが消滅してしまったのかは最後に明かされます。

 

さいきん僕がこわいと思うこと

端的に言うと、働くことがこわい

働くことがこわい。

働くということはこの資本主義の社会にのみこまれること。

資本主義がこわい。市場がこわい。効率を求めることがこわい。

かぎりなく有能さを求められることがこわい。

無駄を捨象したくなるのがこわい。

働くということにおいて、ジェンダーがとんでもなく影響してるのがこわい。

それに対してなんとも思わない人もこわい。

自分が女であることがこわい。女性という性別で働かないといけないことが。

僕大丈夫か?エーン(;_:)

こわいものがありすぎる。この先の人生こわいものしかない??

まんじゅうこわいって言ったらまんじゅうもらえるのかもしれないけど、僕はまんじゅうはこわくないです。)

こわいって思うことは、人に理解されなくてもいい。でも、言葉にしたほうがいいと思った。

なんでこわいの

そもそもこわいって言葉が合ってるかどうかもわからない。

「もやもや」とか「どうしよう」っていう感情を「こわい」って表現しています。

こわいっていう感情の理由は、自分を脅かすから?

よくわかんない、感情に理由なんてあるのか。でもきっかけはあるかもしれないと思う。

そのきっかけについて考えてみます。

恋人と別れた

5か月ほど前、恋人に別れようっていわれました。僕が大学3年、恋人が4年でした。

なんでって言われても、僕自身がよくわかってないんだからうまく説明できない、だからほかの人に説明してもよくわかんないって言われます。

でも簡単にまとめるとたぶん、「社会人になって忙しくなって余裕がなくなるから」?

「最近忙しくなって、だんだん愛が重荷に感じてきている。社会人になって最初のうちは、めちゃめちゃ働いてめちゃめちゃ成長して、周りに差をつけてスタートしたい。今後だんだん忙しくなっていくから、状況がよくなることはない。一緒にいる時間も、あれしなきゃこれしなきゃと思ってしまってつらい。嫌いになってしまいそうで、そんな自分が嫌で苦しい。嫌いになりたくないし嫌われたくない。戻れる可能性を最大限残してお互い好きな状態で別れたい。待たれるのもつらいから待たないでほしい。」

と、こんな感じ。

そしてこの経験から僕がずっと感じてるもやもやはこんな感じ。

  • 社会人になるのってこわ
  • なんでそんなに忙しくしないといけないんだろう
  • なんで僕との時間や未来が犠牲にされてしまうのだろう
  • もしかして男性というジェンダーの影響でそういう選択になるの…?
高校生のとき勉強に追い詰められた

僕は、さきほども言ったとおり、効率とか成果を追い求め無駄なものを捨象するという考え方がこわいです。
これは、高校の時の経験に起因していると思われます。

簡単に言うと、地方の県内トップの進学校に通っていた僕は、その学校の風潮にのまれ、勉強に対するプレッシャーを強く感じ、また自分という人間が数字で表され序列化されているように感じていました。そしてその競争の中で「より上に行かなければならない」、「勉強しなければならない」と強迫観念のように思いすぎてしまい、勉強はつらいものに、勉強しないことは罪悪になってしまいました。

そして最悪のときには、「勉強するのは苦しくてできない」「でも勉強しないといけないのに勉強してないのも苦しい」という、勉強してもしなくても両方つらい状態で、自分が存在してるだけで苦しくなってしまいました。

この経験から、競争に駆り立てられてしまうこと、競争に勝たなければ自分の価値を証明できないと思い込んでしまうことへの恐怖を持つようになりました。そして、そうならないように生きようと思うようになりました。

上へ上へと、競争に駆り立てられる人たちがこわい。成長すること、競争に勝つこと、成果を出すことが自己目的化している人がこわい。それらのために無駄を切り捨てていかなければならない人がこわい。彼らをそうさせている社会がこわい。

僕の(元)恋人が僕を切り捨ててそうなっていくのだとしたらこわい。

僕はそうならないようにしなきゃ。苦しいから…

 

さて。

さてここからは、このもやもやを抱えた僕、もやもやを解消しようとしている僕が、もやもやを解消するために、考えたり、いままで考えてきたことを整理したりしながら、思うままに綴っていきます。

うまくまとめようという気はほとんどないので、是非まとまってなさを楽しんでください

 

生産性至上主義とジェンダー

生産性至上主義」。今まで述べてきたような僕のこわさを端的に表すには、ひとまずこの言葉がふさわしいだろうか。

そして「ジェンダー」。僕の中ではまとまったもやもやの中の要素のひとつなのですが、さっきちらっと触れただけだったので、ジェンダーが出てきたのは唐突に思われるかもしれません。

しかし、「生産性至上主義(という僕のこわさの源)と、ジェンダーには関係がある。」ということもまた、僕にとってはこわいことだったのでした。

 生産性至上主義の呪縛

「生産性至上主義」という言葉は、竹端寛さんのこちらのエッセイ(ケアと男性|現代書館|note)から引っ張ってきました。

こちらのエッセイは、僕がこの文章を書こうと思ったきっかけでした。読んだとき妙にしっくりきて、「これだ!」という感覚がありました。

どんな内容かというのをほんとにざっっくり話すと、男性である竹端さんが、育児というケアに携わることを通して、生産性至上主義の呪縛にとらわれていたことに気付いたりいろいろなことを考えたりするというものです。

僕がこのエッセイを読んでこれだ~~と思った理由は、生産性至上主義にとらわれていた頃の竹端さんの描写が、僕が感じとっていた元恋人の像とぴったり重なったからでした。

効率と成果を追い求める生き方。かつて恋人の姿はそのように僕の目に映っていました。

付き合っていた当時、恋人の存在は自分の中でクソでかいものになっていたため、彼の考え方とか生き方とか価値観は、僕にとってとても重要な位置を占めていました。

とくに別れたあとは、僕との別れを選んだ恋人はどういう価値観からそうせざるを得なかったのか、その価値観をどう解釈すればよいのか、ということが僕にとって重要な問題だったと思います。

「馬車馬の論理」と「ケアの論理」

エッセイの中では、「馬車馬の論理」と「ケアの論理」という言葉が登場します。(ケアと男性|第5回 「自分勝手を手放せる」か?――ケアの論理と馬車馬の論理|現代書館|note)

「馬車馬の論理」とは、世間的評価や他者評価を内面化し、馬車馬のように働き仕事に埋没する論理。生産性至上主義と強く結びついています。

「ケアの論理」とは、目の前にいる他者のケアに時間と関心を払うことに集中する論理。多くの場合女性がこの論理を引き受けています。

そして「馬車馬の論理」は、「ケアの論理」を他者に押し付けることによって成り立つ。

僕は冒頭で、「女性という性別で働かないといけないことがこわい」と言いましたが、そのこわさはここにあるのでした。

自分の未来を予想したとき、男性であるパートナーが生産性を発揮してバリバリ働くかたわら、ケアが女性である自分に押し付けられるのだろうかと考えるととても苦い気持ちになりました。

当時の恋人が男性であって馬車馬の論理にのまれているように見えたこと、自分は女性であること、働いていたとしてもケアの論理を引き受けなければならないとされてしまう性別であること。それがこわかったのでした。男とか女とかそういうのがあって苦しい。そういうので、阻まれている何かがある。

ちなみに、エッセイの著者の竹端さんは、このせめぎあう2つの論理の問題を、性別間の対立の問題として矮小化してはならないように思うと書かれています。

 

福祉で働くということ

特に話がまとまっていないにも関わらず、ここからは自分が働くことの話、福祉の話へとシフトしていきます。

なぜ僕が福祉で働くのか

就職活動という競争。よりよいキャリアへの競争。僕はそこから降りたのだろうか?

周りの人達が大企業に就職しようとしているなか福祉を選んだ。

僕がその選択をしたのは、自分が資本主義的なものや市場、競争と相容れないことを直感で知っていたからなのだろうか。

僕のこわいものたちとは相反するものとして「ケアの論理」「福祉」を選び取っているのだろうか。

上へ上へと際限なく向かう競争がこわくて逃げてきたのだろうか。生産性至上主義がはびこる社会から、生産性至上主義とは真逆のところにありそうな「福祉」の価値観に。

そして、僕が女だから(男じゃないから)、「馬車馬の論理」を嫌い、「ケアの論理」に身を置こうとしているのか。

 

正直、言葉にしてみたところで何もただしくないし、そう単純に説明できるものでもないと思う。

僕は自分の選んだ道が間違っていることなどないと知っているし、自分のいるべき場所がここだということも知っているし、福祉の面白さも素敵さも知っている。

だからなんでもいいです。今は。

有能さ、誰かの役に立つこと

福祉で働くということは、「馬車馬の論理」と「ケアの論理」のどちらかに位置づけられるものではない。

でも僕は、先ほど話した高校生のときの体験から「馬車馬の論理」がこわく、それから降りることを選んでいるような気がする。

福祉の持っている価値観は「生産性」という考え方とは親和的でないといえると思いますが、だからといって、福祉で働くときに「生産性」が求められないかといったらそうではありません。

でも「生産性」を「至上」とはしないでしょう。

 

「誰かの役に立ちたい、そのために有能でありたい」ということと、「自分は誰かの役に立たなくてはならない、有能でなくてはならない」ということは全然別のことです。後者の考え方を否定することと、前者の考え方を肯定することは矛盾しないと思います。

福祉の持つ価値観は前者に近いと思っています。そして後者が生産性至上主義と結びついている価値観だと思います。

ただ、僕は後者の考え方を自分に強要してしまうことがこわい。福祉という場にいても、働き始めたら、「有能であれ」という呪いを自分自身にかけてしまうのではないか。

 

「こわい」、「もやもや」との向き合い方

また特にまとまることもなく、この長かった記事も終盤の雰囲気が醸し出されています。

僕はこの記事を書きながら(書くことで)、自分の「こわい」を見つめなおしました。

わからないからこわい。僕は想像できないものに対しての恐怖が強いと思う。

 

これを書いている4月に、元恋人のきみが社会人になりました。

たぶん僕はきみが社会人になるのがずっとこわかった。

でもなんともなかったよ。

それはこれを書いたからかもしれないし、時間の経過が解決してくれたのかもしれないけれど、僕はたぶん、社会人になったきみが大丈夫そうだったからだと思う。

かくして僕のもやもやは消滅したのでした。

 

僕の愛すべきたくさんのこわいものたち。もやもやたち。

僕を苦しめるけど、僕にいつも考えるきっかけをくれる。

もやもやを解消しようとすることは僕の力になっているはずです。 

 

自分の気持ちが変化したこともあり、矛盾だらけでまとまりもなく不完全な文章だったたと思います。 

でも僕は自分のそういうところもちゃんと愛しています。

ここまで読んでくださりありがとうございました。とてもうれしいです。