どうしようもないままで美しい僕ら

かんがえたことと日々の記録

自分勝手についてII(「誰かのために」は上から目線か)

読んでくれてありがとう!うれしいです。

 

今回は、今日人と話して考えたことが前書いたやつ(「自分勝手について」) につながるなぁと思って、書いてみています。福祉のはなしです。まじめモード、なので、かため、ながめの記事です。(いつもはやわらかめ、みじかめ。)

「自分のためにやること」と「人のためになること」っていう考え方と福祉のつながりについて。

 

話は遡ります。

就活で福祉系?の某企業を受けたときに、「何のために働くか?」という質問をされて、

「私は社会の中でも恵まれて育っていて、そのおかげで得られた自分の知識や技能を社会に還元したいです。とくに社会で弱者とされてしまっている人たちのために使いたいです。それが私の働く意味です。」

と言ったら、

「そういう考え方もあるんだなあと思って、あなたの考え方を否定する気はありませんけれど、それはあなたの視点だけで、弱者とされている人の側の気持ちが入っていないですよね。そこのところをもうちょっと考えたほうがいいですよ。」

とやんわり諭されました。

うーん、、、?たしかにそれはそうかもしれないけど、その人たちの気持ちを尊重してその人たちのために何ができるかを考えたいということであって、一方的に自分のやりたいことを押し付けるという気は全くないんだけどな、伝え方が悪かったのかなー、、、?自分の考えは傲慢で間違ってるのかなー、、?ともやもやしました。わりとずっと心の隅でもやもやしてました。

 

自分のやりたいことっていうのは、なかったらおかしいと思う。福祉で働いてる人も、完全に純粋に対象者や当事者のためだけに働いてるわけじゃない。

「私は世の中を(福祉を)こうしたい」「私はこうやって働きたい」という思い、それは働いている人の「自分勝手」ともいえるかもしれないのだけれど、それがなかったら意思のないロボットと同じじゃないか。

 

私の考えでは、前の記事に書いたように、究極的には人間は自分のためのこと、自分のやりたいことしかできないけれど、それが結果的にだれかの役に立つことはある、と思う。働くということも同じ。

「誰かの役に立ちたい」というのも自分のための行為、自分がやりたい行為。

自分のやりたいことが、ほかの人への行為である場合、それが本当にその人が喜ぶことなのか?って考えるのは、絶対大事にしなきゃいけない。

 

役に立ちたいんだから、その人たちのことも考えて働くよ。

どうすればその人たちのためになるのかって考えるってことも含むよ。

 

某企業の面接担当の方!(は絶対この記事を読んでいませんが、)

あなたと私の齟齬は、こんな感じだったと思われます。

面接担当の方「役に立ちたい→自分勝手な思いだけで自分のやりたいを押し付ける

わたし「役に立ちたい→本当にその人の役に立つにはどうしたらいいかを考える

 

面接担当の人は「役に立ちたい」=「やりたい」という自分勝手な思いのほうに着目してて、わたしが言いたかったのは、「役に立ちたい」=「やりたい」という自分勝手が本当に結果として人の役に立つにようにしたい、ということで、「自分勝手」が生む「結果」をどうしたいかの話をしていたのでした。

だんだん何言ってるかわからなくなってきた…。(ということは読んでる人もわからなくなってきている?)難しい。

 

役に立ちたいとか貢献したいとか誰かのためにとかいう言葉は、「やってあげてる」「助けてあげている」というパターナリスティックな(上から目線の)イメージと結びつきがちな気がしています。

でも福祉にかかわる人って、仕事を選ぶときに、自分の「やりたい」っていう思いがあって福祉を選んでるわけで、その「やりたい」がさっきの「役に立ちたいとか」の気持ちな場合がたぶん多いだけで、「役に立ちたいとか」が必ずしも上から目線の支援に結び付いてしまうというわけではないと思います。

「役に立ちたい」という言葉は一方通行的で自分勝手なイメージを与えてしまうのかなあ。「したい」だからなあ。

 

やりたいっていうことと、本当に当事者の利益になることを一致させていくことが大事かなって思っています。

 

自分の脳みそのなかで渦巻いている考えを言葉に起こすのは本当に難しくて、いつもうまく整理できなかったり間違えたりしながらやっていますので、「それってこうなんじゃない?」という反論とか指摘とかあったら、ぜひ教えてください。

読んでくれてありがとうございました!

 

(4/22追記)

これを書いたあともなんとなくすっきりしない感じもありました。たまたま読んだ本から考えたのですが、「弱者とされている人のために役に立ちたい」という私の考えは、「弱者とされている人」が「困ってる人」だという考えと結びついてしまっているのかなと思いました。

社会的に「弱者とされている」からと言って、本人が困りごとを抱えているとは限らないのだけれど、「彼らのためにもっと生きやすくしなくちゃ」「彼らのハンディを減らさなくちゃ」と思ってしまっているのかもなぁと思います。

うーん。

まだちょっともやもやしてすっきりしないままです。なにかわかったらお知らせします!