どうしようもないままで美しい僕ら

かんがえたことと日々の記録

カメラとくらしと人と人々について

目がカメラになったらいい、瞬きでシャッターが切れたら良い。私の存在がいらない、カメラがいらない、レンズがいらない。私がいることで写るものが不自然になるから、そう思う。

でも、カメラがいらなくても、私の存在はあってもいいときもある。私に向けられた表情の写真を撮りたいときは、カメラは絶対に不自然さを生むからいらないが、私がいなければならない。

そのままを撮りたい。私の目に見えているそのままを撮りたい。カメラを構えたら、カメラがあることが意識されたら、何か違うものになってしまう。

くらしを撮りたい。自分の住む街を撮りたい。街をゆく人々を撮りたい。その一瞬が、その人が生きているという瞬間なのだ。くらしが生そのものなのだ。くらすということは生きるということだ。生きている、という瞬間が写真に写ったら良いと思う。

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人を撮りたい。人を撮るのは難しい。写真に写ることが嫌いな人もいて、それを考えると勝手に写真を撮ったらダメな気もして、どうしていいかわからない。人を不快にさせないことが望ましい。

この前は、勇気出して、写真を撮りたい。と言って、撮らせてもらった。

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どうやら、自分の中にすでにある表現したいものを、写真を撮ることを通じて出力しているらしい。

そして写真は表現であると同時に記録でもある。それは私の生の記録なのかもしれない。

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7/16追記:

写真を撮るということは、人間の行為のうち、とても純粋で神聖さをもった生命の行為だと感じる。とくにフィルムカメラで撮ることに対してそう思う。光を焼き付けて記録している感じがするのが好きだ。