どうしようもないままで美しい僕ら

かんがえたことと日々の記録

解説(4000文字):わたしについて

わたしが考えていること=いつも同じ話してることの総まとめ(まとまらない)

(本に作者の解説?あとがき?のていで入れようかとか思った)(深夜テンション)

 

1.

しあわせ=ウェルビーイング=福祉

 

わたしは幸せについて考えたい。わたしが幸せになる方法について、わたしとあなたが幸せになる方法について、わたしの幸せがみんなの幸せになりみんなの幸せがわたしの幸せになる方法について。

 

わたしのしあわせ=あなた・みんなのしあわせ?

わたしのしあわせのため=あなた・みんなのしあわせのため?

 

たとえばわたしのしあわせは、この世界から来る。雲が大好き。緑、草花も好き。太陽の光大好き。天気、季節、空気、風、匂い、まち、人々から幸福を受け取る。(これらを「自然」と言い換えるのは違うと感じる。)余談をすると、季節に関して言いたいのは、どの季節が好きというよりは、季節のことが好きなのだが、好きな季節をひとつ挙げるとしたら冬だということ。

たとえばわたしのしあわせは、日々のくらし、日常のなかにある。

たとえばわたしのしあわせは、つくることとも関係している。わたしは陶芸が好きで、つくる過程、わたしが手を動かすと、土がわたしのこころとからだの形をそのまんまかたどり、具象の「もの」としてあらわれることがしあわせだ。余談をすると、自分のうつわをさわると手になじむこと、そして表現であるだけでなく実用できるものであること、試行錯誤が必要なこと、焼いてみないとわからないこと、原始的な営みである感じがするところなども、私が思う陶芸のいいところだ。

 

2.

つくること、というのは、表現すること、とほとんど同じ。それは自分の生命の痕跡を記録することにほかならない。それは、わたしの生命の発露。それは、わたしがわたし自身を癒やすことでもある。それは、わたしの生命や、わたしのしあわせに対する祈り。それは、世界に働きかけ、わたしの形を知ること。それは、わたしと世界が作用しあうこと、そしてその記録。

 

つくる=表現

=生命の発露=生命の痕跡=生命の記録=わたしのかけら

=わたしを癒やすこと=わたしへの祈り

=世界への投げかけ=わたしを知る

=わたしと世界の相互作用(の記録)

 

これらがたぶんわたしのしあわせに関係しているものだ。

 

つくる=表現=しあわせ(福祉)?

 

表現(アート)と福祉(よく生きること、幸せに生きること)の関係にも興味がある。

つくること、記録すること(記録)、表現すること(表現)、いのること(祈り)はわたしの中では結びついている。

 

さて、記録することは、わたしだけでなく世界の記録にもなる。

 

わたしの記録=世界の記録

わたしのかけら=世界のかけら

 

(ここで「世界」ということばを使っているが、世界というのは「わたし以外」の意味で、あとに説明があるけれど、その要素である「社会」「まち」「ひとびと」「あなた」と読み換えることができる。)

たとえばわたしは写真を撮るのが好きだが、わたしからみえるものを記録することは、それをみたわたし自身の記録でもあり、みられた世界の記録でもある。写真は、わたしと世界を媒介する。写真だけではなくて、ことばを使う場合も同じこと。ことばがわたしと世界を媒介する。これが、相互作用ということでもあると思う。

記録は、なくなるものがあるからする。変わるからだ。あなたも変わる、わたしも変わる。残らないから、残す。そのときのわたし、そのときのあなた、そのときの世界を。それが、生命の痕跡ということだ。生命は変化だから。生命は動くことだから。余談をすると、変わらず繰り返すもののことについて言いたくて、季節が繰り返すこと、そして花が毎年、季節を知って咲くことは神秘的だと思う。そして余談ではない話をすると、変わるものと繰り返すものについて、日々は、くらしは、生活は、日常は、繰り返しだ。生命は、長いスパンで捉えたら変化なのだが、その細部にあるのは日々の繰り返しだ。だから、生命や生きるについて考えるときは、くらし、生活から考え始めることができる。いのちは日々の集積、いのちは日々から成り立っているから、日々を記録することでいのちを記録することができる。

 

日々(くらし、生活、日常)=いのち、生きる

 

つくることがわたしを知ることだという話。わたしがしあわせになるには、わたしのことを知ることが大事だ。だからこうやって書いて、つくって、自分の形を目に見えるようにしている。自分の形は、自分でも形にしてみないとよくわからない。(形にしてみてもわからないこともある。)形にしないと、世界からのレスポンスがないから、わたしを知ることができない。わたしだけではわたしを認識できない、わたしと世界のあいだに境界がなければ、すべてわたしでありすべてわたしでなくなる。世界とのやりとりがあってはじめて、わたしを認識することができる。

わたしの自己認識についてすこし書いておく。たとえば、わたしの表現について。表現は、話すことが下手だ。でも、わたしの語ること(語り)は褒めてくれる人がいるので、自信をもっている。余談をすると、語りは、「起こる」ものだと本で読んだ。話をもとに戻す。書くのは得意だと思っている。高校生のときから褒められていた。(あれ、自己認識にとって表現がいいというはなしをしていたのに例として表現についての自己認識の話をし始めてごちゃごちゃに…。)でも、このようにわたしがどんな特性をもっているのか知ることで、わたしがしあわせになる方法を知ることができるはずだ。わたしが褒められるのは、直感、センス、感性、ふわふわ、緩和力、包容力、存在自体、芯、ぶれない、動じない、自分の状態を安定させる、表現、論理、バランス、ガッツ、漢気、素直。

さてここで、つくる=表現=「わたしと世界の相互作用」、「相互作用」の話についてもう少し掘り下げておく。相互作用の話がしたかったと思った。さっきはわたしと世界の話をしたけど、これは、わたしと他者(あなた)と言い換えることができる。わたしは、わたしとあなたの相互作用に興味がある。作用があるということは変わることだ。出会う、溶け合う、作用しあう、かわる。影響を与え合うこと、このことに興味があって、このあとにつづくわたしと世界が不可分だという話につながっていくと思う。(きっと)

 

3.

さて、話は変わるが、わたしが受苦ののちしあわせになる方法として編み出したのは、わたし自身が愛であり光であり力であり世界である、そのことに気づく(そうなるように生きる)ことだ。これは、わたしのしあわせや、わたしの価値はわたしの中にあるということだ。他人や社会のなかにはない。最後の、わたしが世界だ、というのは、世界とわたしが不可分なものであるということ(つまり、わたしはわたしのものではなく、わたしのことはわたしで決めていないこと。そして、わたしの幸福がそのまま世界=わたし以外の幸福につながること)を言っているのだと自分では思う。(だから厳密にはイコール関係ではないか。)そして、自分だけじゃなく世界も、愛で、光で、力なのだということを言っていると思う。うまくことばにできないし、自分でも何言ってるかわからないけれど。わたしに大事なのはそれだけだと、思っているかもしれない。

 

わたし=愛=光=力=世界

 

4.

わたしがしあわせであるためには、わたしがかかわるひとがしあわせでなければならない、わたしやあなたがくらすまちがしあわせでなければならない、わたしやあなたが生きる社会がしあわせでなければならない、わたしが生きる世界がしあわせでなければならない。というのが、わたし(の幸福)と世界(の幸福)が不可分だということだ。じぶんがよく生きることと、他者がよく生きること。ミクロとマクロ。細部と構造。利己と利他。このこと(両者それぞれ、そしてそのあいだのつながり)に興味がある。わたしのことをよく知るひとが、わたしの卒論を読んで、「あなたは<場と人の関係>、<ビジョンと現実のあいだ>に興味がある」と、言ってくれたことが、そういえばあった。大きいものと小さいものの関係に興味があるのかな。卒論では、学校という場(社会、構造)が、個人にどんな影響をもたらしているのかについて書いた。もちろん現実はその一方向の矢印ではないという前提で。

と書いてミクロからマクロの橋渡しが終わって、わたし個人メインの話から、社会メインの話にうつりたいと思う。

(と、このパート書いていたんだけど間違えて消してしまった…)

(わたしは福祉で働いているが、それは、自分のしあわせをめざすためでありながら、他者の幸福、社会の幸福にかかわりたいからであるのだろう。わたしはわたしの主観で他者の幸福の近くにいると感じる仕事をしたい。ひとびとをしあわせにできなくしている社会の構造がおかしいと思うから、そこをなんとかしたい。っていうことを書いたんだっけ、、、)

そもそもそんなに社会の話で書くことなかった。でもとにかく、わたしやわたしのまわりの世界に興味があるのと同じように、まちや社会というものにも興味がある。ひとがしあわせでいるための場や構造について。

わたしはマクロや構造に興味があると、自分でも思っていたしそう思われていたと思うんだけど、そのあいだや関係に興味があるのではないかと推論できたのはこの文章の成果だ。

 

わたし⊂あなた・わたしたち(人びと)⊂まち⊂社会⊂世界

 

幸福について考えるとき、この視点で考えている。

 

5.

さいごに、わたしたちは世界の流れのなかで生きていて、さっきも書いたとおりわたしはわたしのものでないから、しあわせというのは、禍福は糾える縄の如し、手に入れることができるのかはよくわからないものなのだ。手に入れようとすること自体まちがっているのかもしれない、あってるとかまちがってるとかでもないか。ただ出会いも喪失も変化もいのちも偶然も関係も、流れていくものだ、きっと。

日々の光をつかまえるだけ。

眠くなったので適当な言葉を並べて終わりとする。もう4時だ。馬鹿だー。とか言わない!おやすみなさい。

 

追記:いつもあんまりしないんだけど、この記事はちゃんと書いたやつなので、あとから「ここはこうすればよかった」って思ったところは編集を加えました。

要約すると、わたしは、わたし、世界(社会、まち、ひと・あなたを含む)、わたしと世界の関係、生命について興味があるのかなって思いました。自分でも何を書いたのかわからないです。

 

追記2:しあわせに生きること、よく生きることに興味があるので、それはここに書いた福祉や社会だけでなく、教育、政治、哲学、経済、宗教、芸術、文学のいずれとも結びついていると思いました。