どうしようもないままで美しい僕ら

かんがえたことと日々の記録

変化についてⅢ

変化しうるものが多すぎたのか。自分が揺らいでいたからなのか。

変わらないものを確かめたくなったのだろうか。

 

数ヶ月前まで住民票があったところでの期日前投票ついでに、今日は大学と、前のバイト先(放課後等デイサービス)に行った。

 

変わらないもの。とうとさ。

 

変わるものがある。変わるものがあるのだけれど、何も変わっていない。変わることはいいことでもあるけれど、変わることはこわいことでもある。

だから、変わらないということに安心する。

 

たとえば放課後デイで子どもたちと数ヶ月ぶりに会って、学年が変わっている。背が少し伸びている子もいるかもしれない。発語が前よりはっきりしてきたり、できなかった足し算やかけ算ができるようになったりしていることもある。

でも、その子の「存在」が変わらない。その子がその子であるということそのものは変わっていない。

そんなように、誰であっても、存在そのものは変化しない。

変わっていることはほんの少しで、変わっていないことのほうが多い。

 

って書いてみて思い出したけど、これに似たのがaikoの歌詞にあって、それがすごく好きだなって思ってた。

「友達だなんて一度も思ったことはなかったあなたに出会ったその日から変わってしまったものもあるけど変わらないことのほうがあなたもあたしも多いよ」

これがめっちゃそうやな、って思ってて、好きな歌詞で。

この歌詞は恋愛のことだと思うけど、恋愛に限らず、変わらないことのほうが多いということ、抱きしめたいと思う。わたしたちは、いつでも変化のほうに目を向けがちだから。

 

陶芸サークルの後輩にも久しぶりに会って。大学も変わらないし、大学のある街も変わらないし、住んでいた街も変わらない。新しい店ができるとか、もちろん変わっている部分もあるんだけれど、圧倒的に変わらない。街が、というか土地が、そこにあるということはずっと変わらない。どんなにそこにあるものが変わろうと存在が変わらないのだ。

 

サークルでは、合宿が合法的に(ルールとして禁止されずに)できるようになって、一泊で新歓合宿ができたとのこと。今まではコロナのあれで合宿はしてはいけなかったので、我々(誰?)の手に日常が戻ってきたことがほんとうに喜ばしい。わたしはその合宿に行っていないけれど、それが続いていくということを本当に望んでいるみたいだ。サークルの活動、引き継がれてゆくカルチャー(文化)のこと、とても愛している。

 

自分が変わっていないことを、何より、確かめたかったのかもしれない。

社会人になったからといって、あたしは変わらない。生活が変わったから、住む場所が変わったから、関わる人が変わったからといって、あたしはあたしだ。あたしはあたしの愛するものを愛している。あたしはあたしの大切なものを大切にしている。(トートロジーなんだけどね。)

久しぶりに会う人たち、久しぶりに歩いた街は、これまでと地続きの私であることを確かめさせてくれた。

ここがあたしの場所だったな、と思うことができた。ここにいたのがあたしだったな。ここであなたと関わってたのがあたしだったな。と。

 

社会人になったからといって、何か大きく変わるわけではないと思う。後輩は「働きたくないです」「働けるか自信ないです」と冗談混じりに言うけれど、働くことを悪だと思いすぎるといざ働くときに自分が苦しくなると思っていて、そんなに今の日常と違うものとして捉えすぎないほうがいいと思っている。働く自分を、それまでの自分と切り離してしまうのは、自分が痛い。

 

あたしは変わってないよ、と言いたい。

 

フィルムカメラで写真を2枚撮った。陶芸の部室の写真と、住んでいた街の写真。

変わっていくけれど変わらないものをフィルムに残した。

人が写る写真や人が多いところでの写真は撮るのをいつも躊躇うので、街の写真が撮れたのは、それだけ、切実に、あたしにとってその写真が必要だったからなのかなぁと思った。

 

ほかに書き残しておくこと。今朝はスパイスハーブティーを飲みながらタロットのリーディングの動画をみた。あと、服とサンダル、巾着バッグを購入した。夜はお酒を飲んだ。

kodakのportra400が欲しい。

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