どうしようもないままで美しい僕ら

かんがえたことと日々の記録

2021

2021、出会いによって人生の中で一番変化した年だった。

わたしは1年前とは全く別の人間なのだと思う。表面上は何も変わっていないかもしれないけれど、積んでるエンジンが違う。

私は愛であり、光であり、力である。そして私とは世界であり、世界は私である。私と世界は不可分であり、自分を愛することは世界を愛すること。誰に愛される必要もなく、誰に価値を決めてもらう必要もなく、己を愛とし、光とし、力とする。

そのように生きるようになったのだった。

同一化していた片割れを喪失し、自分が持っていかれて、自分の形がなくなってしまったから、自分をつくりなおさなければならなかった。自分を守るために、こんなふうに生きるようになったのだと思う。こうするしかなかったのだと思う。

この話を私の大切な人たちに、するつもりはなかったし誰にも話したことなかったのだけど、たまたますることになった。それが、数日前。

仏教の考え方に近いと言われて、確かに、と思った。ちょうど1年前くらいは、生きることが何なのかわからなくて仏教について学んだりお寺に通ったりしていた。実は繋がっていたのかなと思ってびっくりする。

ほんとうに大切なものは失われない、と敬愛する師匠が話してくれた。師匠は、この私の謎の言葉を用いた概念とメタファーしかない話を理解できていた。俺わかってると思うで、と。そして敬愛する同志は、「私は愛、私は光」という言葉に対して、敵わん!と言った。

 

今年は私が新しい私を知った。

私は、漢気のある漢、漢気とセンスのある天才、自分や自分の言葉を大切にする人、天使、サイヤ人。伸びが著しい。ひょいひょい飛び越えて進んでいく。

あまりにも私が変化している。私の変化に私が置いていかれないようにしたい。

人生は川の流れなのだという。分かれているかたほうを選んでも結局は同じ川の流れの中にいる。川の流れというのは、「そのようにしか生きることができない」ということだと思う。

「そのようにしか生きることができない」。

それは生命ということで、表現ということだ。愛おしいと思う。

今年は愛する仲間ができた年だった。この人たちがいるから私はやれると思う。というか、やるしかなくなっているのだと思う。この人たちに巻き込まれてしまったから。ポジティブな意味だ、ポジティブに、巻き込まれてしまって、やるしかなくなってしまったのだ。

先を走っている仲間も、決断をして前に進もうとしている仲間も、その人なりのスピードで確実に歩みを進めようとしている仲間もいる。

と、同世代の仲間だけじゃなくて師匠みたいな仲間もいる。

誰もやったことがないことをやる。それをやらなくてはならない場所にいる。

 

なんだか、あたしは変わったのだ。

昔のあたしが今のあたしを見たらこわいって思うか、拒否反応を示すかするかもしれない。パワー系、エネルギッシュ系にはちょっと引いてしまうあたしだ。

今のあたしは若干、暑重苦しい(あつおもくるしい)ような、、、。

 

レベルアップする、といってレベルアップを重ねてきた1年だった。200以上のちいさな変化を積み重ねているうちにだいぶ違う人間に刷新されていたことに気がついた。

大丈夫になりたいと思った。私を守るために強くなりたいと願った。

強さがなんなのかはわからないけど、私の弱さはちゃんとまだ私の中にあるだろうか?

何かを得ているのだから、そのぶん何かは必ず失っているものだ。

何かがわからなくなっているのではないかと怖くなる。

驕りたくないな。弱いまま強くなりたいし、大切なことを見失いたくない。大切なことがなんなのかはわからないけれど、ちゃんと地に足をつけて生きたいな。

 

来年は激動の年になる。こわいけど、こわくないと思う。トンネルを抜けるまでには、辛抱がいるらしい。誰かが言っていた。困難じゃないとストーリーとして面白くない、とその誰かは言っていた。

私がどこに向かっているかは私もわからない。茨の道を歩むことになるみたいだ。神様からわざと石を落とされて、そういう使命を背負ってしまったらしい。誰かが言っていた。

そうなのかもしれないと思う。

困難な道を行くのはこわいことだろうか。しんどいことだろうか。置いていかれないだろうか、私は。

でも、そういう道も、「そのようにしか生きることができない」っていうことなのかも。

 

私の今年の漢字は「顕」、来年の漢字は「違」。と数日前に話した。

周りと違うことや違和感を大切に生きる年にする。

あとすこしで2022年になる。

 

さて、この記事を読んでくれた人、今年私と関わってくれた人かな?今年はありがとう。そして読んでくれてありがとう。

また来年もどうぞよろしくね。