どうしようもないままで美しい僕ら

かんがえたことと日々の記録

ひたすら柿を食べる・ケアワーク・現実・タフネス

ひとりぐらしコロナ。以前、うちの大家さんが部屋の玄関ドアに柿をいっぱい入れたビニール袋をひっかけておいてくれた。わたしは気が向かないと台所に立てないので、そんなにいっぱいもらっちゃっても、なかなか皮を剥いて食べられないなぁと思っていた。しかしひとりぐらしコロナ陽性状況下にあって、食糧の調達が難しいいま、まじでありがたい。柿ばかり食べる。ちょうどいいかたさの柿、みなさんはどのかたさの柿が好きですか?熟しすぎてるのは、あまり好きじゃないかも。今日は、職務経歴書と履歴書を書いた。絶対に選べないと思っていたことを選んだ1年だった。現実を自らの手で変えること。それを選びましたと言ったら、ふーんそうなんだすごいね、へー。と思うひともいるのかもしれないが、わたしにとっては現実を改変するいとなみであって、まあそれ意外のこともいろいろ影響していたとは思うがわたしはいちどバラバラになって、それからすこしずつ、形を取り戻していったのであった。

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めちゃくちゃ魂こめて書いた履歴書と職務経歴書、自分では満足している。

ちょっとよんでほしい。

 

あー。知ってほしいんだな。

そうだと思う。自分のやってたこと、みていた現実のこと、知ってほしい。そう思ってる。

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ケアの仕事の全体をなるべく具体的に細かく言語化した。自分ですごいと思う。服選びとか、室温と湿度の調整とか、物品の管理・調達・補充とか。ほんとうはもっともっともっと細かい。(たとえば、水分提供でいっても、お茶パックの調達、入れ物にパックと水をいれてお茶をつくる、コップにお茶を注ぐ、とろみが必要な人にはとろみをつける、コップを相手にわたす、自分で飲めない人もいるので、手で支えて飲んでもらうことや、スプーンで口に運ぶこともする。あとは、洗濯ってひとくちに言っても、そんな一単語で終わらないいとなみである。まず脱いだ服を洗濯機にもっていっていれる、洗剤をいれる、足りなければ補充する、ボタンを押す、終わったら乾燥機にかけたり干したりする、畳む、それぞれの人の分をまとめる、タンスにわかりやすくしまう。)ひとつひとつの細かい細かい細かい動作から、ケアは成り立っている。それらは言語化されない。「食事、排泄、入浴、服薬、日中活動、余暇活動、記録入力」だけじゃないのである。ここには大体ちゃんと書けた。それはほんとに伝えたいこと。

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書くこと読むこと撮ること、そのほかのこと

自分の日記本を、はじめて読んだ。読み返した、という表現が合っているのかな?瑞々しくて、きれいで、未熟で、鮮やかで、痛いと思った。まだ途中までしか読んでないけど。(主に、2021年に書いたものに対する感想かな)

それから、フィルムカメラの写真が、すごく綺麗だと思った。

ピントが合っていない箇所の、ぽわわ、もわわとぼけている像が、たまらなく好きだ。フィルム独特のぼけかた。愛おしい。

そうして、フィルムカメラを手に取って、部屋の写真を撮った。

いつも、何枚撮りのフィルムを入れたのか忘れる。だから、撮り終わりがわからずに撮っている。いつも、買うフィルムがバラバラなのだ。そのときお店にあるものを買う。いまのところ、カメラのカウンター(フィルムカメラはそのフィルムを入れてから何枚撮ったかわかる)、みると、28枚まで撮っている。から、32枚撮り?そんなんあったっけ?36枚撮り?

 

コロナ陽性になってからの夜勤明けて、AM9時過ぎに帰宅した。体調悪い。熱はやっぱり38度以上ある。くるしい。寝る。薬を調達する元気もなかったが、家に解熱剤があることに気づいて、お昼に柿を食べたあと飲んだら、だいぶ熱下がって楽になってきた。

 

それから、楽になったので、日記祭で買った『ひとりになること 花をおくるよ』を読んで、自分の日記本を読み返そうと思ったのだった。

日々日記を書くというのはあらためてすごいことで、書くたびに、それまで生きてきた時間とこれから生きる時間の両方を編集し続けるようなところがあるのかもしれない。と書いてみて、ああそうか、写真を撮ることもそうなのか、と思い至ったのでした。写真もまた、シャッターが押されたその日を、その一瞬を、形に残してしまう。「本当」みたいな形にしてしまう。きっと撮るひとにとっても、撮られるひとにとっても。

これを読んで、自分の書いたものを読みたいと思った。

 

書かないと、無くなってしまうから書いているんだと思う。撮らないと、無くなってしまうから撮っているんだと思う。わたしがそこに存在していて、感情を動かしていたことを、絶対になかったことにしたくない。そういう気持ちでやっている。わたしは存在しています。生きています。と、ずっと、写真でも文章でも同じことだけを言っている。気がする。

振り返らないと無かったことになるから、ちゃんと過ぎていったことをとどめておきたい。形にしておきたい。と思う。

わたしの記録、あなたの記録、世界の記録、っていつも同じこと言ってる気がする。

 

昔の日記は、日記というかブログは、抽象的で、あいまいで、詩に近いものがけっこう多かったなあと思う。最近は、具体やディテールを書いてみたい気持ちもあって(それをやったらどんなふうになるのか試したい気持ち)、抽象はあんまり書いていないが、読み返して自分がいいと思うものは、大体抽象的なやつだったので、抽象が好きなのかもしれない。

 

食べること、読むこと、音楽をきくことはよく似ていて、それをやっているときにしか訪れない自分の感覚や感情の動きとつながること。自分とつながること。

 

自分の日記本、意外と良いなと思った。

 

2022年の振り返りをしたい。これから書こうかな?大晦日のほうがいいような気もするけど、30日も31日も仕事だから、今のうちに書いておきたい気もしている。

 

12月21日(水)天気:はれ | コロナ陽性者隔離対応夜勤

なぞのでかい四角い機械が部屋に2台設置されていて、コオオと音を立てている。管理職の人がそれのことをインアツ機?と言っていたように聞こえた。それをマックスで稼働させていれば、窓を開けて換気しなくても、窓を開けて換気しているのと同じことになるから、窓は閉め切っちゃって平気とその人は言った。なんせ窓を開けて換気するのは寒い。でもそのよくわからない機械を信用してよいものかわからないので、いちおう窓は開けておこうかと思った。しかし寒い。なんせ寒いので、窓を閉めるか迷う。

わたしはいまN95マスク、ヘアキャップ、フェイスシールド、ガウン、グローブ(手袋)をつけてこの文章を書いている。スマホはうすいビニール袋で覆って、文字を打っている。ちょっとやりづらい。スマホ→ビニール袋→グローブ→私の指、の順に、スマホと私の指は2つのさえぎる膜にへだてられている。汚染されないように。

寒い。

わたしは風邪をひいているのか、コロナウイルスに感染しているのかはわからない。だけれど朝起きたときから喉が痛かった。痰が出るような感じの痛みだ。職場で配布されている抗原検査キットで検査し陰性だったので出勤した。

出勤すると、わたしが配属されている棟の利用者1名(知的障害のある方)がコロナ陽性になったと管理職の人に知らされる。ついに来たか。他の2つの棟では、クラスターが発生していて、もう全員の利用者が陽性になっていた。

陽性になった人の隔離対応をとったところで、大体の場合、すでに他の利用者も感染していることが多く、結局は意味がなかったね、となるパターンが毎度だ。

 

あぁ、〇〇さん陽性かぁ。おっと。ということは、わたしもかなりまずい状況では?喉痛いの、ふつうにコロナでは?わたしは今日夜勤だが、もし勤務しないほうが良いとなると、代わりの夜勤者を探すことになり、調整がめっちゃ大変だ。早めに管理職に伝えておこう。

結論、わたしが隔離対応担当になって、陽性の利用者さんをマンツーマンでみることになった。たしかにそうだな、、。

 

大変なことと楽なこと。

大変なのは、防護服を着たままでできないことが多すぎて、飲み物を飲むとか食べ物を食べるとかトイレに行くとか。いちいち脱いで、寒い寒い外に出て。これがなかなか行けないのでつらい。

楽なこと。一対一!なんて楽!!!いつも夜勤では10人の利用者の排泄、着替え、洗濯、朝の歯磨きや薬の準備、記録などなど、全部やらないといけないので、あぁ、こっちのほうが全然楽。と思う。絶対夜寝れるじゃん!!

あー、代わりに、大変なことがもう一個あって、昼の12時まで残業で勤務。15:30〜12:00。勤務時間だけみると鬼だな。夜勤というか昼。でも一対一だから、普段に比べたら10分の1で、めちゃめちゃ楽です。

隔離対応のほうに人をとられて、なおかつ、コロナが出たからということで休む職員さんもいるので、通常の業務をまわすほうもこれは大変大変です。隔離者対応のほうがたぶん楽かも?わかんないけど。でも棟の利用者さんも、空気を察しているのか、ふだんより自分の部屋でめちゃおとなしくしていて、すごい。

 

追記:わたしのねつが38.3!でもきっとこのまま夜勤?

 

追記2:陽性でしたがこのまま朝まで。

12月19日(月)天気:はれ

なんか思ってこれをブログに書こう!と思ったけどわすれた。

 

追記:

思い出した!

なぜか書いてしまったもの、なぜか語ってしまったこと、なぜか撮ってしまった写真、なぜか築いてしまった関係、なぜか選んでしまったすべてが、そのひと自身を形づくっていく。その意味は、あとからわかる。

 

メモ

・気を使うと気遣い、心遣いのちがい?気を使うという言葉はネガティブイメージ。

・ケアしすぎも良くない?適度なケア?

・無意識に意識できるようになること

・わからなくてもずっと考え続けてたらたぶんわかる

・今までできなかったことができるようになったと思う。人との関わりに関すること。嬉しい

・ケアの仕事と飲み会の幹事、つながるかも、、?!

・場をケアしなかったらカオスになるのか?なぜ場をケアするのか。なぜそれができるようになったほうがいいのか。

・仕事ができるって何なのかは、よくわからん

・よく観察すること、見えてるけど見えてないもの

・いいと思うこと、いいと思うもの、いいと思うひと、その逆、その理由

・言われたことをやることは、大事だと思う。教えられたこと、アドバイスされたことは、一回そうだと思ってやってみる。ただ、なおかつ、その外側、俯瞰する視点も持てるようにしたい。

・本気について

・バランスが良いってどういうこと

・キュートさ、チャーミングさ

・わたしのやりかた、わたしなりのホスピタリティ

 

 

施設のコロナクラスターがやばい。

 

追記:

部屋を寒くないように保ちながら、空気を入れ換え、なおかつ湿度を保つって難しすぎる

京都、ローカル、そして生きる

もう暗くなっていた。京都駅に着くと、改札付近は、不安そうな声と表情をしたたくさんの人でごった返していた。新幹線が運転を見合わせていたのだった。わたしは寒かった。バスで京都駅まで来た。そのバスの中も寒かった。わたしはバスの中でほとんど寝ていたけれども、換気のために窓が開いていて、つめたい風が吹いてくることを感じた。寝ているあいだにもずっとわたしは寒いと感じているのか、それとも眠りが浅くなった瞬間だけ寒いと感じているのか?

わたしもごった返すたくさんの人々のなかのひとりになる。となりに立って列車を待っている2人組の会話に耳を傾け、運行についての情報を得ようとしながら、落ち着いて、しかし素早く、ちゃっかりと指定席を予約した。わたしにはそれをすることができた。

改札を通り、エスカレーターでホームへ。せっかくだから、おにぎりとかサンドイッチよりは、すこしは京都らしいごはんを食べながら帰ろうかと思った。ホームの売店には、パッケージに「京都」と書いてあるお弁当が並んでいる。やはりみんな、京都に来たからには京都のものを食べたいのだ。パッケージに京都と書いてある焼き鯖寿司を買って新幹線に乗る。

京都駅からはほとんどずっと寝ていた。焼き鯖寿司を食べようとも思ったけれども、それほどお腹が空いていなかったし、ダイヤの乱れによる混雑で人がかなり多かったので、コロナのことも多少考えて食べなかった。

午前3時半以降に就寝し8時前に起きるのが2日も続いたにしては、ひどい眠さではない。

 

横浜駅に着いた。ここから家まで1時間くらいはある。家に着くより前にはごはんをたべたい。そうだ、食べるのはここしかない。駅のホームの椅子に座り、寒い、寒いが、食べるのだ。

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京都というのは、京都にある観光スポットのことではない。京都というのは、地面。土地。自然。山、川、道。土地の名前。名前をつけた人々。そこにいる人々。人々の話す言葉。食べるもの。その場所だからありえること。その場所だから現れてくるひとりひとりの感情、思考、行動。ひとりひとりの住む家、くらし。生きているひとりひとりと、もう死んだひとりひとり。そのひとりひとりから、できあがってしまったものの総体が京都なのである。

その意味では、わたしも、この3日間のあいだは、ほんのすこしだけ京都になっていたのであった。

 

わたしは、わたしが感じること、心が動くことを頼りに、手がかりに、それを抱きしめて生きていきたいと、思った。きっとそれは常にあたらしい。わたしが生きているから。

そんなことを考えながらの帰路。

日記と非日記のあいだが気になる日記

<誰にもわかるはずがない、わかるもんか、わかってほしくない。と思うくらい苦しいと思っていることをあなたにはわかってほしい>

わからないでしょう、わからないで、と思うことと、わかって、と思うことが同時に存在する場合の話。

 

なぜか11月半ばくらいから、日付をタイトルにして日記というかブログを書くことが多くなった、それはたぶん、自分の状態を整えるための日記、という目的を、無意識的に設定してしまっていたからのような気がする。それから、日記という概念にこだわり始めた。日記らしい日記をそんなに書けないもしくは書かないことを良くないと思ったというか、日記らしい日記を書きたかったのかな?

 

夜勤明けて、京都、滋賀へ。仕事とプライベートのあいだの、どちらかといえば仕事寄りのことで。雲がきれい。ひとりが同時に別の場所には存在できないが、同じ時間の東京よりも寒いと思った。

仮眠の質が良いか悪いかっていうのは、トータルの長さも大事なんだけど、断続的じゃなくて通しの眠りであることは大事っぽい。今回夜勤中の仮眠は、今までで一番よく寝たと思う。運もあるんだけど。1時間半くらいは眠れた。でも起きて巡回に行ったら発作になってる人がいてびびった。

関西に来ることわりとあるんだけど、周りの人の話すことばが急に違うから、違う国にきたみたいにびっくりする。

太陽がオレンジ色に光っている。きれいだから見たいのに見たら目が焼けてしまう。

夜勤明けにイベント運営手伝いしないといけないこと、コンディション整わないだろうなと心配していたが、思っていたほどではなかったので良かった。いい時間を過ごしたい。

12月13日(天気:はれ)同化欲求のこと、受動と受容のこと

このひとに、わたしと同じものを見てほしい。わたしと同じことを、面白いと思ってほしい。わたしと同じことに、心を動かされてほしい。このひとと同じものをみたい。このひとと同じ感覚を感じたい。心のなかの場所を共有したい。わたしとあなたは同じなんだよと言いたい。

という、同化欲求のことについて、考えていた。

好きになった存在に対して、同化したい、一体化したいという欲求が、わたしは強すぎるような気がする。(恋愛的な意味だけでなく。)(わりと誰にでもある欲求なのかな?とは思うけど、どうなんだろ。)

わたしの太陽星座は蠍座なので、それは蠍座的なことなのかもしれないと思う。

心を注げる対象を見つけたい、それに全身全霊で心を注ぎたい。という欲求があるんだと思う。

良い場合も悪い場合もある。Twitterで、佐々木ののかさんが、仕事はそこに心血を注いでも誰にも迷惑をかけないというか、本気でぶつかることができる(人間に対してそれをやるのはいろいろ問題が起きる)というニュアンスのことを書いていて、そうだなと思っている。わたしはそういう対象がほしいのだと思う。

それは依存という言葉で表すこともできる。わたしたちはたくさんのものに依存している。仕事に依存することは、ある誰かに依存するよりも、一般的に悪いことだと思われない。

依存、それに依って在ること?

これからどういうふうに生きていけばいいんだろう。

自分のエネルギーの行き場を、みんな求めてるんじゃないのか。

 

それから、受動的、受容的、受け身的。のことについても頭の奥でずっと考えている。

わたしはそれ(受動的、以下略)。わたしに対して来るもの拒まず、なんでもウェルカム、なんでもオッケー、あなたはあなたの望むようにしていい、あなたがしたいようにしてくれれば全部それでいい、受け止めるよ。というスタンスに近いのかな。

それに加えて、わたしへ向けられる要求、期待、そういうものに過剰に反応しすぎる、適応しようとしすぎる場合がある。全部受け止めたい、受け止めないと、と思いすぎることがある。んだと思う。難しいよー。

だから、聞こえてくる他者の声や、読み取れる要求、自分の頭で感知できる期待には、応えないと!!って思って対応する一方、自分が聞き取れない声、頭にのぼってこない他者の期待、本質的な課題に対応することには弱い、のかもしれない。

 

それから、選ぶとか決めるって、何をしていることなのか、どこをどう使ってそれをやっている(それができる)のか、わからない。

[15:15]

 

生きることの切実さ、ぐちゃぐちゃさ。

生きることへの絶望と希望を繰り返し続けること。

[15:50]

 

2019年の自分が聞いていた曲をきいている。たくさんのものの力によって生き延びてきていて、それ(何によって生き延びてきたか)がアイデンティティをつくるのだと思う。

今日は人生で2回目に行った居酒屋で、人生で3回目に、お酒で気持ち悪くなって吐いた。ちょっと強いお酒だったのかな…気をつけよう…。

大人、仕事してるんだなぁ〜。と思った。

日記本をオンラインで買えるようにするのが面倒で全然進められない!と思った。

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