どうしようもないままで美しい僕ら

かんがえたことと日々の記録

書くこと読むこと撮ること、そのほかのこと

自分の日記本を、はじめて読んだ。読み返した、という表現が合っているのかな?瑞々しくて、きれいで、未熟で、鮮やかで、痛いと思った。まだ途中までしか読んでないけど。(主に、2021年に書いたものに対する感想かな)

それから、フィルムカメラの写真が、すごく綺麗だと思った。

ピントが合っていない箇所の、ぽわわ、もわわとぼけている像が、たまらなく好きだ。フィルム独特のぼけかた。愛おしい。

そうして、フィルムカメラを手に取って、部屋の写真を撮った。

いつも、何枚撮りのフィルムを入れたのか忘れる。だから、撮り終わりがわからずに撮っている。いつも、買うフィルムがバラバラなのだ。そのときお店にあるものを買う。いまのところ、カメラのカウンター(フィルムカメラはそのフィルムを入れてから何枚撮ったかわかる)、みると、28枚まで撮っている。から、32枚撮り?そんなんあったっけ?36枚撮り?

 

コロナ陽性になってからの夜勤明けて、AM9時過ぎに帰宅した。体調悪い。熱はやっぱり38度以上ある。くるしい。寝る。薬を調達する元気もなかったが、家に解熱剤があることに気づいて、お昼に柿を食べたあと飲んだら、だいぶ熱下がって楽になってきた。

 

それから、楽になったので、日記祭で買った『ひとりになること 花をおくるよ』を読んで、自分の日記本を読み返そうと思ったのだった。

日々日記を書くというのはあらためてすごいことで、書くたびに、それまで生きてきた時間とこれから生きる時間の両方を編集し続けるようなところがあるのかもしれない。と書いてみて、ああそうか、写真を撮ることもそうなのか、と思い至ったのでした。写真もまた、シャッターが押されたその日を、その一瞬を、形に残してしまう。「本当」みたいな形にしてしまう。きっと撮るひとにとっても、撮られるひとにとっても。

これを読んで、自分の書いたものを読みたいと思った。

 

書かないと、無くなってしまうから書いているんだと思う。撮らないと、無くなってしまうから撮っているんだと思う。わたしがそこに存在していて、感情を動かしていたことを、絶対になかったことにしたくない。そういう気持ちでやっている。わたしは存在しています。生きています。と、ずっと、写真でも文章でも同じことだけを言っている。気がする。

振り返らないと無かったことになるから、ちゃんと過ぎていったことをとどめておきたい。形にしておきたい。と思う。

わたしの記録、あなたの記録、世界の記録、っていつも同じこと言ってる気がする。

 

昔の日記は、日記というかブログは、抽象的で、あいまいで、詩に近いものがけっこう多かったなあと思う。最近は、具体やディテールを書いてみたい気持ちもあって(それをやったらどんなふうになるのか試したい気持ち)、抽象はあんまり書いていないが、読み返して自分がいいと思うものは、大体抽象的なやつだったので、抽象が好きなのかもしれない。

 

食べること、読むこと、音楽をきくことはよく似ていて、それをやっているときにしか訪れない自分の感覚や感情の動きとつながること。自分とつながること。

 

自分の日記本、意外と良いなと思った。

 

2022年の振り返りをしたい。これから書こうかな?大晦日のほうがいいような気もするけど、30日も31日も仕事だから、今のうちに書いておきたい気もしている。