どうしようもないままで美しい僕ら

かんがえたことと日々の記録

労働、身体、言語、他ならぬわたしのため

わたしの仕事。

言語、

仕事で人と話すときに自分の言語を話すことができない。ここで話す言語はわたしの言語ではない、という確信は最初からあったのだった。そしてわたしはわたしの抵抗を行った。仕事という名のもと、わたし自身の言語、わたしがわたしであるための言語は奪われているのではないか?

身体、

身体の労働。身体が疲労する。身体が仕事。

わたしたちと同じ言語を自ら話さない方もいる。わたしの話す言語はどのくらい理解されているのだろうか?わたしとあなたは通じているのか?コミュニケーションはどうとればよいか?目で?手で?

言語の内容、言語のニュアンス、表情、手、視線。身体を通じたかかわり。伝えるということ。

 

こんなことばかり考えて働いている。

 

いつも怒りながら働いている、と言ったら過言で、でも「なんでこうなんだろう」とずっと思って考えている。

他ならぬわたしのためにだ。

わたしのため、をやることが、あなたのためをやることにもなる。

 

だからめっちゃ自分のことばっか考えて働いてるなぁと思う。

わたしのbeingの問題なのだ。

 

労働という形式によって、施設という形式によって、本来あるべき姿から何を奪われていると感じるのか。

 

そしてわたしがいつも何と何のあいだに立っているのか。わたしがどのようにしてささやかな抵抗を模索し続けているのか。

それを考えなければ働くこと=生きることがうまくできないから、考え続けるしかない、他ならぬわたしのために。

わたしが望んでいることだと思う。

そしてここに書いてあるのがわたしのことばだ。