この仕事って、日々に溶けているから、(家の中じゃなくて賃労働だけど)シャドウワーク?っていうのかな、ケア労働ってそういうことなんだと思うけど、わかりやすい成果とかがないよね。毎日、繰り返しなんだよね。
直線的な時間ではなく、繰り返しの時間にいる。長期的な目標は意識されにくい。
どのくらいの割合のひとがどんな仕事をしているのか知りたい、調べる気はないが。
お母さんに、「生きててよかったと思うことある?」と、なんとなく最近考えていたことを聞いてしまった。
わたしと一緒にいるとき、何気ない日常、そこにわたしがいたこと、小さな幸せ、そのときには気づかないけどそういうものがあると教えてくれた。
最近、記憶があやふやな気がして。
アイデンティティが拡散していたからなのか、仕事のとき人格が分離しているからなのか、仕事が繰り返しだからなのかなんなのか、何して生きていたのか本当にわからない。
ばらばらなんだよね。
本当に生きてたのかな?って思って、このあいだは写真見返した。ブログを見返しても、あんまりわかんなくて、生きてたかどうか。
でも写真、とくに自分の写ってる写真は、生きてたのかもなって感じがした。
お母さんが切り取ってくれたわたしと過ごした時間の話は、そこに私がいたことを思い出させてくれて、わたしにはそんな記憶は全く失われていて、だから生きてなかったことにしてしまってたんだけれど、生きてたことを知った。
自分で自分を生きてないことにしてるのかな、最近。
すっごく忘れちゃう。
そこにわたしがいたことを認識/記憶できていない。認識/記憶しようとできてなかったのだと思う。
自分がどこにいるのか、どうして知らないんだろうね。
あやふやなんだ、なんでわからないんだろうね。思い出すことも考えることもできなかった。
もうすこし、ひらかれる必要があるのかな。
自分が生きていることを知りたいと思っている。
みんなは自分の生の手ざわり、ありますか?
生のざらつき。感触、ありますか?
ざらついていたいね。そう思う。
だんだん、こういう文章が書けるようになってきて、これは回復?に向かっていることなんだと認識している。
日々の話、愛の話、わたしの話、取り戻してると思う。
ちょっと嬉しいかも!
嬉しいとか楽しいって感情、ずっと沈んでたと思うから。
わたしの確認作業したい。またブログ書くぞ。
(↑ここまでで1000文字ぴったり!)
要するに、考えてもわからないことや言葉にできないことを無理やり考えようとして、自分の内面世界のことばかりしか見ることができてなくて、そこで闘ってたので、世界とのつながりを取り戻していこうと思う。そういう表明。