どうしようもないままで美しい僕ら

かんがえたことと日々の記録

昨日と今日の少し長い日記

ひとは網目の中で生きていてそのときの状況によってその網が太くなったり細くなったり切れたりつながったり何かがかよったりかよわなかったり一方向だったり双方向だったり、そんな感じ。

そして、認識、解釈、捉えるっていうことについてここ最近ずっと考えてきてると思うのだが、悲観、楽観、ポジティブ、ネガティブとか、そういうのって今現在じゃなくて未来に対する感覚なのかな?「これがずっと続くかも」っていう?

ある人の言動、ある目の前で起こる現実があって、それをどう捉えるかっていう話、それぞれがそれぞれの生のかたちのいびつさでもってしか現実を捉えられないのかなぁと考えていた。なぜ苦しいのか、わたしがわたしだから苦しいのか?でもこういう考えごと、気づいたらしてしまうんだけど、興味ないし好きじゃないんだよね。だからそういうのを書いても楽しくない。おわりにする。

 

なんのために生きてるんだろうって思うときつらい日々、でも友達が会う約束をしてくれたから、そういうことのために生き延びるってことにしていいんだろうと思う。

 

今の自分は、自分が自分であるせいで苦しくてこの苦しみからは逃れられなくてどっちに行っても地獄みたいに捉えてしまっていると思った。そんなことないよきっと。

 

昨日は眠気と シフトが被った人との相性と 入浴介助で下着が濡れて気持ち悪かったり体冷えたり急かされ続けたり疲れたり、それで本当に神経すり減らしてストレス過ぎて無理だった。今日は最近ちょっと仲良くなった同期と一緒だった。仕事が楽しくない話をした。帰宅。帰省した時におばあちゃんからもらって帰ってきたパプリカを使って料理。料理すると自分をケアできると思ってやってるところもある(料理うまくないし自炊しないタイプ、気が向くときだけね)。お母さんが電話でつないでくれておばあちゃんに報告できた。パプリカはナスと一緒に漬物にできて、おいしいらしい。意外。私がおばあちゃんの家の畑(庭)に植えたお花を摘んで仏壇に飾っているという写真と、畑で採れた野菜の写真を送ってもらった。

 

人を失うとき、肉体というマテリアル、写真になる、でもそこにいる、そこっていうか自分に見えない範囲の世界で。それでも声や話し方や仕草は残す?残る?

 

こうやって日々をやり過ごしてさ。

f:id:miho1104mnmk:20220831231044j:image