どうしようもないままで美しい僕ら

かんがえたことと日々の記録

腕時計 わたしのからだ 本 などのこと

きっとすこし痩せたのだと思う。ある時点にくらべると。気のせい?いや違うな。腕時計が緩くなったと思う。歩いているとき、よく腕時計がスポッと腕から外れて抜けてしまう。これは事実。でも腕時計がわの問題かもしれないし、肌の問題かもしれないし、腕をおろした状態で歩く頻度の問題でそう感じるのかもしれない。からだや顔の見た目は…ちょっとわからないけど、一時期に比べたらよぶんなお肉はいくらか減ったような気がする。それから新しいほくろがいくつかできた。ここと、ここと、ここだ。ここには前まではほくろがひとつしかなかったのに、そのまわりにふたつもほくろができたので、三角形の星座みたいだ。右上腕。

 

電車などに乗るたび、いいかげん新しいSuicaを手に入れないと、いちいち切符を買うのがめんどうだ。モバイルSuicaにしたいと思っていたのに、Apple Payの設定ができなくて困った。いけるカードといけないカードがあるのかな?面倒だ。

 

いま買わないといけない本は、小松理虔さんの『新地方論』、それから内田樹氏の『街場の教育論』の2冊なので、「論」かぶり…かぶりというか、揃いだと思った。

 

わたしのつくった本にはわたしとは別に人格(本だから本格??)があるみたいだ。わたしではなくて、本が読まれたいと言っている。

わたしはまだ本がこわくて読めていないのだけれど、ようやく読みたいかもしれないという気持ちがすこし出てきた。つくったのは自分だから内容はわかっているけれど、なんかそういう問題ではなくて、なんと言ったらいいのかわからない。自分の書いたものを読むのは、ちょっとだけこわいときもあるし、読みたいと思うときもある。受け取るときによって感じ方が全然違うので、本とか文章ってそういうものだけれど、一回読んで終わりじゃないから何回読んだっていいし、自分にとって大切かもしれないものは、何回も読んだほうがいいものだ。

それを読んで何かを感じる、思うっていうことが大切で、それはすぐに通り過ぎていってしまうものだから。

 

追記:これは、料理を味わうみたいなことだと思った。その料理を食べているときにしか、味は感じられない。食べ終わったら、どんな味だったか忘れてしまう。そのときにだけ訪れる感覚。読むときもこれと同じで、それを読んでいるまさにそのときにしか訪れない感覚というのがある。それのために読む。

 

今日はこれから動物園へ。切符をなくさないようにしないといけない。

 

追記2:

Apple Pay、VISAカードは店頭決済しか対応してないことが原因でした。モバイルは無理なので新しく買ってなくさないようにします。