どうしようもないままで美しい僕ら

かんがえたことと日々の記録

ながめにふり蛙

ふりかえるというのはからだをうしろにむけることだ。からだ全体ではなく一部。

 

まずあたしは、4月から…混沌の中にいた。

仕事を覚えないといけない。

あたしは勉強はできるかもしれないけれど要領がいいわけではない。気も効かないと思う。動きはのろいし周りを見て動くのは不得意なほうだ。ケアとは身体だ。わたしは身体は得意でないと思う。仕事を身体に染み込ませていくのには人より時間がかかったかもしれない。仕事ができないと、はやくおぼえて動けるようにならないと、ここにわたしが存在する価値がない。何もわからないまま、メモして、頭には入れようとするけど身体に入らなくて。はやくできるようにならないといけない、と先輩に言われたことが苦しかった。何もわからないのに。

仕事をおぼえる。流れを、ルーティンを覚える。はやく使える人になる。

 

文化。文化圏。そこは暮らしの場であるけれども異世界だった。まったくルールや常識のちがう暮らし。当たり前だったことが当たり前でないけれど、何もわからないから、これでいいのかどうかわからない、異文化に放り込まれた。

追記:

ここでわたしが言う文化とは、人との関わり方、言語の使い方、空間、時間の使い方。

 

「これでいいのかどうかわからない」ということはかなりずっと苦しかった。

これじゃだめだ、と思う。わたしが奪われていると思う。わたしとあなたの関係も奪われていると思う。

ケアする身体、ケアされる身体。管理する身体、管理される身体。提供する身体、提供される身体。

そのふたつしか存在していない。

だがこの世界ではそれは当たり前で、疑う人は誰もいないようにみえる。

その二種類の中に「わたし」という身体が、「いる」ということができない。存在しないわたし。

そういうことが前提になっている世界。

この世界の前提に疑問をもつわたしであることは、この世界の一部になっているわたし、この世界で価値を発揮しないといけないわたしを引き裂くことでもあったのだと思う。

この世界で価値を発揮するわたしは、この世界に疑問をもつわたしであってはならなかった。そのふたりのわたしは両立しえなかった。

この世界に疑問をもつことは、この世界にとっては価値のないことだからだ。少なくともわたしにはそのようにしか思えない世界だった。

 

ケアする身体でありながらわたしであり続けようとずっとしてきた。

ケアする身体の中に、わたしを挟みこもう、入れ込もう、表出させようといつもしてきた。

わたしである瞬間を増やしたいとずっと願ってきた。

仕事するとき、どのくらいわたしであれているのかはわからない。

 

今。あれだけわたしの周りや中を渦巻いていた苦しみや葛藤が見当たらない。どうして?わたしの身体は、この世界の身体となったのか。

仕事はきっと前よりもできるようになって、使える身体になっただろう。わたしがいなくなったらちょっと困るだろう。そしてわたしはここに居られないわけではない。居られないほど苦しかったら、話は簡単だった。逆にどうしてここにいられるのか、どうしてそれでいいのか。わからない。

自分なりに、最大限わたしとあなたでいる方法をみつけたのかもしれない。そうなのかな。最適解。何かとずっと闘おうとしてきて、何かできるかもしれないと思って、あたしの存在で何かが変わるかもしれないと思って、このおかしな状況をよりよくできるかもしれないと思って、変えようとしてきて。わたしは何かを変えなければいけないと思っていたのだった。でもこれ以上あたしにできることはない、というところまできたのかな。

変えなければいけないことなんかあったのかどうかわからない。

少なくとも自分の存在の仕方を変えたのだろうか。

それが適応ということなのか。

 

わたしはそれでよくなかったのに、みんなそれでいいんだと知った。

ほんとうはそれでよくなかった人もいたのに、みえなかった。

 

そろそろ寝ようと思う。ふりかえりできたかな。

わたしがどこで何をしたいのか、何でありたいのか、探し中。意味を。

 

追記:

葛藤の中で引き裂かれずにできる限りわたしとして存在するための妥協点。

 

追記2:

普通に考えても社会人になることってアイデンティティを一回壊して再構成しないといけないようなことなのに、文化が自分のものと地続きじゃなくて、身体ごとだったから、いろいろなものを壊さないといけなかったんだろうな。